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(しおり)から蘇るラブストーリー

  病室の窓ガラスに、木枯らしが凍てつく吐息を吹き掛けると、闇夜が呑み込む。
 今日も眠れぬ私を闇夜がせせり笑う。

 私のたった一人の親族である母の弟、宏の最期を看取るため、病室の簡易ベッドに泊まり込んで二十日。眠れぬ夜が続く。今夜の私は何度も寝返りを打つ。
 枕の下に両手を入れて携帯電話を探す。右手で掴み「今、何時やろ……」と、小さく呟き携帯電話を開いた。
 時刻は午前二時であった。
「ああ、まだ三十分しかたってへんわ」
私は独り言を言い、叔父の様子を窺(うかが)うために、ベッドから起き上がった。
「わぁ! オッチャンの顔が……」
 私は素早くベッドから飛び降りた。
 廊下から零れる灯りを頼りに、私は、体をかがめ、叔父の鼻の右横にへばりつ
いた十センチほどの黒い異物を、取り除く為に左手で叔父の額を押さえ、右手の
指先で異物を剥そうとした。
 そのときである。
「や、やめて! お願い! お願いです。もう少しこのままにして……」
 得体の知れない黒い異物が、若い女性の声で喋った。
 私は「わぁ‼」と、声を上げて後ろにのけぞると、体のバランスを失い簡易べ
ッドに尻餅をつき恐れ慄(おのの)く。
「驚かせてごめんなさい。私は森桜子と申します。貴女は宏さんの姪の緑さんね。
目元が彼にそっくりね」
 黒い異物は私に親しそうに語り掛けた。
「えっ。森……桜子……。栞(しおり)の方ですか。オッチャンがよく話をいていた恋人?」
「恋人なんて。私は人妻で、K医大付属病院の看護婦(師)。彼は有望な内科の
研修医だった。罰が当たったのよ。その三年後の夏、夫の故郷の宍道湖で、遊泳
中私は溺れ死んだのよ。三十八歳の時、それからずーと、宍道湖の中なのよ。貴
女! どうして訝(いぶか)しい目をするの? 私はどんな姿をしているの」と桜子は言う。
「十センチの黒色のアメーバみたいです」
「えっ。桜の花弁(はなびら)になる様に、宍道湖のお主様にお願いしたのに! でも、ここに辿(たど)り着(つ)いただけでも感謝しなくちゃ」と桜子は言うと、大きな溜息を吐いた。
「お、叔父は今でも栞を大切に……」
 私は戦(おのの)きながら、叔父の財布から今にも破れそうな栞を取り出した。それをおそるおそる叔父の顔に掲げると、桜子は嗚咽した。そして叔父の顔から消える。
 私は鳥の囀りで目を覚まし窓辺に立つと、朝焼けに叔父と桜子の笑顔を見た。

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