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ヴィクセン(女狐)

 晩秋の日溜まりで、子供の様に眠り込んでいる姉翠の寝顔を覗き込み、妹のマリは小声で「お姉ちゃん。起きて」と言った直後。
「わっ。や・め・て」と、苦渋な表情で翠は手足をバタバタさせた。そんな異様な翠の姿に驚いたマリは、翠の両肩を掴み何度も揺すった。
「ど、どないしたんやなぁ⁉ お姉ちゃん!」
 大声で肩を揺すられ、悪夢から目覚めた翠は、目の前の妹マリの顔をマジマジと見据えた。
「あんた! 赤い綸子(りんず)の袋に入った手鏡をお母さんの棺桶から抜いたのは、あんたやないか! あの手鏡を使ってはあかんで! 祟(たた)るで!」と、翠は鬼の形相となり、だみ声で怒鳴った。
「うちと違うえ! 鏡が祟るなんて嘘や!」
と、突然の翠の変貌に慄(おのの)き、大泣きするマリの声に我に返る翠であった。
「ああしんど! マリちゃん、どないしたんやなぁ泣いたりして」と、翠は疲れた顔で言った。
 亡父の愛用だった椅子に掴り、ゆっくりと立ち上がった翠は台所に行き、水道の蛇口を開くと、両手に溢れる水を何度も口に運び、喉を鳴らして飲んでいた。
 障子越しに、マリは水を飲む翠を怪訝(けげん)そうに、見詰めていた。
 そして、マリは涙を手で拭いながら訊ねた。
「お姉ちゃん。ほんまに、何にも覚えていいひんの。凄い形相で、『お母ちゃんの棺桶から手鏡あんたが抜いたやろ』と言うたの忘れたん?」
「ほんまに。堪忍え。お母ちゃんの遺品整理は明日でええか? 今日はなんか疲れたわ。あの手鏡なぁ、祟りがあるんやで! あんたも春子叔母のことを知ってはるやろ、あの手鏡のせいで変死しはったこと」なぜか翠はニコリと笑う。
 仏間の襖を静かに、開き中に消えた。
 やがて、線香の香りと翠の御経を唱える声がした。
 マリは姉の翠から母の妹春子の名前を聞くと、幼き日に叔母春子との約束を想い出す。

 今から数十年前、大寒波が襲来した師走の夕暮、客間で祖母や母達は、正月に飾る床の間の掛け軸を広げあれやこれやと、大騒ぎをしていた。そんなとき、足音を忍ばせて裏口で、靴を履く姿に遭遇したマリは叔母の屈(かが)んだお尻にしがみ付いた。すると、驚いた叔母は振り返り、淋しい笑顔でマリを抱きしめて、マリの眼の高さに屈(かが)むと、ショルダーバッグを開き、中からチョコレートを取り出して、マリの両手に握らして「あんたの顔は、うちにそっくりやからこれあげるなぁ。美味しいで。叔母ちゃんと会ったのは内緒やで」と言うと、マリの顔を冷たい両手で包むと、ゆっくりと抱きしめた。「大好きやで。マリ。はよ、お母ちゃんとこ行きや」ゆっくりと叔母はマリから離れた。
 それからバックに手を入れて赤い緞子の袋を取り出し中から、小さな手鏡を手にしたとき、叔母はマリと目が合うと慌ててバックに戻す。
 冷たい笑顔を残し「バイバイ」手を振り勝手口から出ていった叔母はその夜帰らぬ人となった。
 
 マリは悲しい過去の記憶を打ち消すかのように、不倫の炎に息を吹きかけると、彼女の身体は燃えた。
 亡き叔母のように、裏の勝手口から表通りの駐車場に急ぐマリの耳元で「あの手鏡はお墓にいれてなぁ」と、亡き母の哀しい声に、マリは怯(ふる)え、立ちすくんだ。しかし、恐ろしさで、心が潰れそうなマリは勇気を振り絞り、駐車場に走り込む。
 その駐車場の右端に黒ベンツが、息を潜めるように止まっていた。
 散り始めた銀杏の落ち葉を、踏み締めて息を整えたマリは、素早くベンツに乗り込だ。
 運転席の男は、マリの顔を覗くと「その口紅は君には,似合わないね。翠のかい」ゆっく車のエンジンをかけた。車は駐車場を出て、国道に出ていった。
 驚いたマリは「えっ。そう借りたのよ。義兄さん、よくわかったわね」と、翠の夫に訊ねた。
「妻の口紅はここ拾年、俺からのプレゼントさ」と聞くと、マリは慌ててバッグの中からチッシュと自分の口紅を取り出した。コンパクトを探すが、見当たらず、再びバックに手を入れると丸い感覚を見つけて取り出した。
 それは母や姉が恐れる手鏡であった。少し躊躇うが義兄の発言が、彼女の背中を押したのか、マリは赤い緞子の袋から手鏡を取り出し覗いた瞬間、前方の反対車線の大型トラックが、車線を越えて、猛スピードでこちらへ突進してくるではないか、思わず悲鳴を発しながら鏡を覗くと、咽び泣く姉の顔が映っていた。

 

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